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イギルジュンたちの叫び。「私達は正当だ」

ヘルメットの中で泣いた青年は、笑顔で警察に向かった。(ハンギョレ21.原文
(訳注:部隊復帰を拒んだことに対する令状が思ったより早く
出たため、それに従い、自首して警察署に向かうことにした)

7月の最後の日、ろうそく集会鎮圧命令を拒否する良心宣言をしたイギルジュン義警、いや青年は、5日の篭城を終え自らの意思で警察署に向かった。彼は「新しい抵抗の始まり」だと話した。彼がつらい悩みを振り切ってやっと安息を得ていたソウル新月洞聖堂の篭城を見守った。そこには各地から集まった老若男女の「イギルジュンたち」がいた。彼の良心を守るために走ってきた市民イギルジュン、彼のように良心の問題で悩んだ戦義警除隊者イギルジュン…篭城の場には果てしないイギルジュンの来訪が続いた。












そこには村ができた。イギルジュン氏が紆余曲折の末に良心宣言記者会見を開いた次の日の7月28日、シンウォル洞の聖堂にはいつの間にか「ろうそく村」が出来ていた。聖堂に入ると右側にはろうそく集会参加者達に食事を無料で提供する「ダインパパ」のご飯車両が400人分のサムゲタンを作っており、正面には冷コーヒー・冷飲料・冷水をただでくれるろうそく喫茶が置かれていた。何よりも住民達がいた。良心宣言の消息を聞いて各地から走ってきた「市民イギルジュンたち」が良心宣言をしたイギルジュンを守るために夜を明かしていた。すでに聖堂の周辺には戦・義警たちがあちこちに立っていた。この日の夕方7時、篭城を一緒にする良心による兵役拒否者イヨンソク氏は「今まで(ヨホワの証人を除く)韓国兵役拒否者30名余りに対する支持者を全て合わせたより(ここの支持者が)多い」と話した。夕方8時、ろうそく集会の時間が近づくと聖堂の庭にはすでに200名を越える「ろうそくたち」が集まっていた。

(中略)

この日の集会には2003年の「イギルジュン」が参席した。当時、イラク派兵に反対して部隊復帰を拒否した二等兵ガンチョルミン氏がイギルジュン氏を応援するためにデグから走ってきた。ガン氏もソウル基督敎会館708号で一週間の篭城を行った。彼は当事の悩みについて「一つは両親、二つは世論、三つは懲役だった」とし「篭城中だがギルジュン氏は相変わらず悩みが多いはず」と話した。それでも彼は「当事に比べると訪問者がずっと多く、美味しいものが集まってくるというところが違う」と笑った。このような「同じ立場」だったからだろうか。ガンチョルミン氏と対話をしたイギルジュン氏の表情が少し明るくなった。彼らが会った聖堂の地下の篭城場の冷蔵庫には果物が溢れ一方にはラーメンボックスが溜まっていた。篭城期間の朝食は聖堂の信徒達が、夕食はインターネットクラブ「82クック」の会員達が解決してくれた。出版社ドゥリメディアは篭城団の読み物として100巻余りの本を寄贈した。この日、一日だけで集まった後援金が113万ウォン。そうやってそこは「乳と蜜が流れる篭城場」だと呼ばれた。もちろん世の中が彼を応援ばかりしたわけではない。この日の深夜には近所の住民だという男性が訪ね抗議する事件があった。Daumアゴラにはイギルジュン義警を支持する文章と批判する文章が書き込まれた。イギルジュン義警が入隊当事に作成した「私の成長期」まで引用して部隊に復帰せよという現職警察の文章もあった。

そうやって一日が過ぎた。7月29日午後、篭城場には相変わらず人が溢れた。家にも帰らずイギルジュンを守る人々もいた。「末っ子」だと呼ばれた脱学校青少年から、「ビッグママ」だと呼ばれた還暦を越えたお婆さんまで4泊5日の篭城期間中、聖堂を離れなかった。心で応援する人々もいた。末っ子がアフリカ放送チャットを通じて「タオルが足りなくて頭が洗えない」と話すと2~3時間後には誰かがタオルを持って篭城場を訪ねた。篭城団イヨンソク氏は「イギルジュン氏の兵役拒否素見書を英語に翻訳すればよさそうだと誰かが話すとイギルジュン氏を支持するカフェに誰かが素見書を翻訳してあげる」と不思議がった。篭城団で安全を担当した兵役拒否者ギョンス氏は「聖堂におられるろうそくたちが、ただ座って談笑を交わしているように見えるが、自ら安全ポイントになる場所を見つけ、守りながら警備をしている」と話した。こうやって篭城団が動かなくてもロウソクたちの自律巡察が組織された。イサムシン(69)お婆さんは27日夕方に記者会見の知らせを9時ニュースで見て京畿道城南から走ってきた。彼は「良心者を守りにきた」と話した。お婆さんは4泊5日間、篭城期間に一時も聖堂を離れなかった。そうやって「長い夜を明かして」朝露を浴びながら篭城場を守るろうそくが少なくなかった。こうやって韓国放送、YTN、曹渓寺など、重要なろうそく集会現場や篭城場をしつこく守ってきた彼らが、続々と聖堂に集まってきた。

この日も夕方の8時に開かれたろうそく集会の時間が近づくと人が増え始めた。イムウンゾン(36)氏とゾン某(34)氏はプロサッカーチーム全南ドラゴンズのサポータズで出会った。全南所属のキムナムイル「オパ」を応援する途中で知り合ったが最近はろうそく同士に変わった。ちょうどソウル漢南洞で働くイム市と孔徳洞が職場だったゾン氏がこの日は聖堂を訪ねることで意気投合した。昔はデモなど知らなかった彼らがろうそく集会に出ることで戦・義警に対する考えも変わった。イム氏は「最初は本当に切なくて…怒ったデモ隊に追われる戦警を怪我しないように保護したりもした」と語った。しかし7月のある日、彼らは切なく思う気持ちを捨てた。「週末の夜明け3時、デモ隊が分断された。私達が分断された部分の真ん中にいた。そして周辺には女性ばかりいた。戦・義警が私達を追ってきたが、背中を見せた人々が最も多く殴られたという国際アムネスティの報告書を思い出し、彼らから目をそらさなかった。ところで戦警たちが非武装の女性の私を足で蹴って通り怪我を負った。」隣で話を聞いていたイム氏も「私もそこで盾で顔を殴られメガネが壊れ怪我を負った」といいつつ苦々しい表情を浮かべた。こうやってデモは戦警に対する「お姉ちゃんたち」の好意も変えてしまった。ゾン氏は「イギルジュン氏のように良心宣言をせよということは難しい」といい「ならばろうそく集会鎮圧に行ってから除隊した戦警たちが声を出してほしい」と訴えた。こうやって「戦・義警に殴られた」と話すろうそくたちがイギルジュンを守りにきた。「ウア(Woman Of Agora)女性会員たちもカルビの箱を持ってきて篭城場を訪ねた。禿山洞に住むという50代の女性は「どんなカルビが好みかわからなくて王カルビ、餅カルビ、辛いカルビなど種類ごとに持ってきた」とイギルジュン義警の手をとり涙を浮かべた。結局20代女性はウア女性会の「お姉さまたち」と篭城場で徹夜をしてから職場に出勤した。篭城団チェゾンミン活動家は「こうやって夜更かしをして職場に向かう方々がいる」と伝えた。

この日も夕方8時にろうそく集会が始まった。参席者の中にイミョンバク政権から「存在」の危機を感じる人々もいた。京畿富川に住むチェヨンソン(52)氏は「6歳の孫娘が膽道閉鎖症という珍しい病を煩っている」と話し「医療保険民営化になれば家計も難しいのに孫娘がどうなるかわからない」と心配した。集会場の一角には白髪の老人たちが座っていた。ソウル冠岳區に住むという60代の男性は「私が受給権者だが、政権が変わってから補助金が減ってばかりだ」と話した。隣にいた老人も「昔は障害者だと認めてくれたが、いきなり診断書を持ってこいと言ったり、生活がどんどん難しくなる」と嘆いた。この日の集会には1968年ベトナム戦争当事、兵役を拒否したアメリカ人、ハユソル神父が発言者として立った。彼は代替服務で韓国で平和奉仕団活動をした。そうやって韓国との縁を結んだハユソル神父は韓国の兵役拒否者たちを支持する仕事にも熱心だ。新月洞聖堂の信者達もろうそく集会を一緒にした。新月洞聖堂の信者チェ某氏は「市内までろうそく集会に行くことに躊躇していたが、ここで平和的にろうそくを持っている方々を見て感動を受けた」と話した。

篭城場では学校も開かれた。毎日夕方7時に行われた「イギルジュンと一緒にする抵抗、リレー講演会」。28日夕方に政治経済学者ホンギビン氏、29日ハンホング教授、30日パクノジャ教授が100名余りの人々の前でろうそくと社会についての講演を続けた。篭城の最後の夜だった30日夕方、篭城場を訪れる者の中にイギルジュン氏の友達もいた。大学の先輩ゾンデフン氏は「イギルジュン義警ではなくギルジュンに会いにきた」と話した。彼は「ギルジュンは何かに縛られることを嫌う、ただの普通の子だ」と話し「私達が負担をかけるよりも、彼を自由にしてほしい」と話した。イギルジュンよりも先にイギルジュンの道を悩んだイギルジュンの先輩もいた。イギルジュン氏の大学先輩、パクジェヒョク氏は2004年義警で除隊した。彼は現役時代、イギルジュン氏のように良心宣言をしようと悩み、実行に移す準備もしたが、結局行動できなかった。パク氏は「義警服務期間に私は私ではなかった」といい「ある小説の表現のように'人称のない中立的主体だった'と振り返った。1人称、3人称、どれでもない消された存在だったと。

(中略)

2004年に除隊したチェジェワン氏は三重苦に追われた。戦警で勤務した彼はデモ隊との物理的な衝突、部隊内の過酷行為、良心の呵責に苦しんだ。当事、進歩政党の党員だった彼は「戦警でなければいい」という気持ちで入隊した。しかし彼は3回の瞬間が忘れられない。まず訓練所を追え戦警に選ばれた瞬間、それでも彼は行政の仕事をするだろうと自分を慰めた。しかし再び機動隊に配置される瞬間が訪れた。そして最初の出動でデモ隊WP防ぐ瞬間が結局訪れた。(中略)彼は「いわれるとおりにしないといけない戦・義警ではなく彼らを動かすシステムが問題ではないか」と指摘した。そして「未だに胸が痛いため'暴力警察は下がれ'というフレーズを叫ぶことができない」と溜息をついた。

(中略)

7月31日、ついに篭城の最後の日を迎えた。篭城を一緒にした人々はイギルジュン氏が一人で耐えなくてはいけない時間を思い、涙を浮かべた。彼らの気持ちは「守ってあげられなくてすまない」という一言に込められていた。イギルジュン氏は記者会見の前に<ハンギョレ21>と行ったインタビューで「篭城をしながら、苦しいたびに自らを納得させることが重要だった」と話し「篭城によって選択を固めることができた」と話した。そして彼は「堂々と法的な処罰を受けることも抵抗の一つの方法」だと話し「これは別の抵抗の始まり」だとも話した。そして雨の中、聖堂の庭で記者会見が行われた。イドクウ弁護士(進歩新党共同代表)は記者会見で「イギルジュン氏に対する裁判が開かれると戦闘警察制設置法に対する違憲法律審判を提請する計画」だと明かした。もし違憲法律審判提請を法院が受け入れなければ憲法訴願を出す計画だ。今まで裁判を起そうとする戦・義警が現れなかったため進められなかった憲法訴願がイギルジュン氏の決断で可能となった。「戦・義警制度廃止のための連隊」ハンホング共同代表は「今が80年代でもないのに時代が生んだ親不孝者が未だに出続ける現実に心が痛む」と話した。「イギルジュンは正当だ!」4泊5日、彼を守ったろうそくの叫びが彼を見送った。そして彼らはイギルジュン義警を最後まで守るといい中浪警察署まで足を速めた。(後略)
by no_kirai | 2008-08-10 12:27 | ろうそく集会(デモ/文化祭)
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