ユシミンの話すメディア法改正問題
ついにメディア法が国会壇上を通過した。予想されたとおり、ハンナラ党は活劇をも厭わなかった。政局は一気に冷却し、雰囲気はノムヒョン政府時代の'弾劾政局'を連想させた。状況を中継するテレビ画面から雄叫びと罵声が行きかう国会本会議場の光景を見ながら、一抹の疑問を抱く。いったいなぜ、ここまで、政府与党がメディア法をめぐって無理な手を打つのかが気になるのだ。 職権上程がもたらす後遺症について彼らが知らなかったはずはない。去年のろうそく政局から今年のノムヒョン前大統領の逝去まで点々と増加する現政府への不満が、政府与党に無視できない政治的負担として作用している状況において、メディア法の強行処理はこのような負担を減らすどころか、より加重させるきっかけを提供することだといえる。政府与党は現在の状況への政治的判断力をまったく持っていない無能な勢力なのだろうか? 今回のメディア法の通過が政治人の立場から見ればとても不利な状況を助成するしかないことは明らかな事実だ。パククネ前代表が取ったポーズがこの点を暗示しているといえる。どんな政治人が世論を無視して政治をしていけるだろう?不可能なことだ。なのに政府与党が大多数の世論に逆らい職権上程という最後のカードを切り出したのは'政治'を捨てる行為だった。いわば、政治人の手で政党政治の機能を停止させることを自ら行ったのだ。一言でいうとメディア法の通過は政治人の利害関係からみると自殺行為だった。 なので繰り返し問うならば、いったいなぜ政府与党は政治的利害関係に反するこのようなことを躊躇なく実行に移したのか?確かなことがひとつ。彼らを動かせた動機が決して'政治的な利害関係'ではなかったという事実だ。いままで韓国社会で政治人の利害関係は、自分自身の権力を維持することにあった。韓国の政治人は誰かを代弁するものというより、自分自身の権力を現す存在だった。なので国会議員の金バッジは'国民のためのもの'ではなく、自分自身の出世の象徴だった。この事実を誰よりも'国民'が詳しく知っている。 ところで今回のメディア法通過を主導した政府与党の行いは、このような既存の信頼を裏切っている。ミステリーが発生したのだ。キムヒョンオ議長はメディア法を民生関連の法案ではないと認めていながらも職件上程という強硬な手を打ち、法案を処理した。自分の政治履歴において小さくない汚点を残すことが自明なこのような決断を下した理由はなんだろう?政府与党への忠誠心から起因するのか、それとも保守勢力に媚を売るための純真なジェスチャーなのか?<東亜日報>はこのようなキムヒョンオ議長の決定について「キム議長自らもメディア法は民生と関連する法ではないと規定していたため、メディア法をめぐる消耗的論争によって、他の民生法案が犠牲されてはいけないという意中から、職権上程という決心に影響を及ぼしたのだろうと考えられる」と主張するが、このような分析は牛が笑うような話だ。 このような発火は、それ自体で自縄自縛だ。キム議長の'意中'はともかく、この記事の発火を覆して見ると確然としている。言ってしまえば、ならばそんなふうに民生となんの関連もないメディア法を必死に押し込み、民生関連法案の処理を源泉的に封鎖した政府与党の執着はどうすれば弁明できるのか?私達の疑問はここから出発するべきだろう。問い直そう。いったい何故、政府与党は、昼も夜も声を張り上げて叫んでいた民生問題も果敢に無視しながら、それとなんの関連もないメディア法を強硬処理するために懇親の努力を注いだのか?不思議ではないか?常識的に考えても答えは一つだ。彼らは今まで韓国の政党政治の政治人たちがそうしてきたのと違い、政治人という自己利害関係の論理によってメディア法に首っ丈になっていたわけではない。結論から話すと、政府与党の政治人たちがメディア法処理に熱を上げたのは'政治人'の利害関係ではなく、別の利害関係が作用した。それはなんだろう? ある者は'朝中東'という3大保守新聞らに放送兼業を許可してあげるためにこのような無理な手を打ったと考えるだろう。しかしはたしてこれが説得力のある話か?与党の政治人たちが今まで三つの新聞社からいろいろと助けてもらったとしても、血縁関係でもない限り、これらのために自分の政治生命までをも投げ捨てるとは思えない。また、接近して観てみると、新聞社の放送兼業を三つの新聞社がすべて賛成してはいるが、一定の温度差を十分に感知できる。三つの新聞社の中でもっとも熱を上げているところは<中央日報>だ。<朝鮮日報>は最初は熱を上げていたが、局面がそこまで甘くないということを感知してからは躊躇する雰囲気がありありと伝わってくる。もちろん<東亜日報>のように藁を持って火に飛び込んでいるという事実すら知らない場合もあるが、<朝鮮日報>はそれでも糞と味噌を判別する能力に長けている。 メディア法は、単に新聞社に放送兼業のみを許可するために作られたものではない。もちろん火は'朝中東'がつけたが、炎は大企業放送進出という場所へ飛び火している。新聞社と大企業が並んで競争すれば、いくら巨大新聞社だといえど、資本の規模で劣る新聞社は勝利できない。三つの新聞社の中で<中央日報>がメディア法にもっとも関心を見せた所以は、わざわざ説明しなくてもその理由を用意に推察できるということだ。メディア法が前面に掲げる'市場主義'は、結局、放送市場にて最も強い者だけが生き残るという'最適者生存の論理'にすぎない。この新しい市場で、はたして<朝鮮日報>はサムスンのような大企業の資本力に勝てるのか?はたしてこの状況でSBSのように報道能力の劣る地上波放送が<中央日報>の報道放送に打ち勝てるか?いわば恐竜の戦争が始まったのであり、ここで恐竜どもは叩きあい、共に滅びる可能性すら出てくる。 今回のメディア法の通過を見て、過去にサムスンが飽和状態になっていた自動車市場に飛び込んだ悪夢を想起せざるを得ない。そのときもサムソンは市場の論理を掲げたが、その選択は市場そのものの壊滅を予告するものだった。同様に、今回のメディア法の強硬処理も似たような結果を生むことがありうる。市場の名で飽和状態におかれた市場の競争を加速化させること、結局、被害者は視聴者に他ならない。極度の競争システムにより放送製作環境の構造的矛盾がさらに激化するなら、かろうじて一線の放送製作人らが劣悪な環境にもかかわらず奮闘して作っていた優良なプログラムすら姿を消すことになる。各放送社の芸能プログラムが財政の負担を解決するために似たりよったりの芸能人たちの雑談で一環するのは最近に始まったことではない。これから政府与党が主導したメディア法が開いてみせる世界は、このような状況をさらに悪化させることはあっても改善させることにはつながらない。大企業の資本が投与されれば放送市場のパイが大きくなるだろうというバラ色の予測も、このような憂慮を払拭させるだけ確かなものではない。これこそが冷酷な本当の市場主義の原則だ。 しかもより深刻な問題は、恐竜たちの戦争に<ハンギョレ>や<京郷新聞>のような小さい新聞社は入ることすらできないということだ。そもそもメディア法は勝者だけを勝たせ続ける不平等な理念を具現している。世論の多様性の具現が、今よりさらに難しくなることは火を見るより明らかだ。今回のメディア法の通過は、資本と公共性の距離の取り方を調節すべき政治人らが、大企業の肩を一方的に持つことにより、国家の管理機能を一挙に解除させてしまった事件だったと結論付けられる。ブルジョアの利害関係が管理を通さずに一方的に国家権力によって執行されるなら、それは'街頭の抵抗'という直接的な力の衝突をまねくしかない。政党政治という緩衝地帯を自ら消えさせてしまった政治人らは、取るに足らないメディア法を果敢に通過させることによって、自分の権力を維持させるのに欠かせない'政治'を埋葬させてしまったのだ。 原文:http://www.mediaus.co.kr/news/articleView.html?idxno=7393
by no_kirai
| 2009-07-25 05:01
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