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私達の中の大運河~386に送る手紙

私達の中の大運河~386に送る手紙 (原文5月28日。プレシアン)

李明博氏は歴代の大韓民国大統領の中で「子供達が最も嫌う」大統領であることは間違いない。子供達は狂牛病牛問題が浮かび上がるずっと前から、大統領選挙運動が始まる頃からすでに彼を呼び捨てにしながら笑い話の素材にして風刺化していた。何人かの子供を捕まえなぜそんなに李彰浩氏が嫌いかと聞いたことがある。子供達の表現は様々だったが「論理より嫌悪が先にある」という点で一致した。私は子供達が彼らの直前の世代は持たないある直感を持っているということを知った。それもそうだ。今の中学3年の子供達は1993年生まれだが、93年は所謂文民政府が出発した年だ。子供達は民主化以降に生まれて育った初めての世代なのだ。

その子供達の親が所謂386達だ。彼らは子供達とはまるで逆の環境で生まれて育った。軍事ファシズムの治下で生まれて育った彼らは民主主義の実際については知的にも情緒的にも学んだり習う機会が殆どなかった。彼らはむしろ非民主的な、前近代的で集団主義的な習俗を習いながら育たなければならなかった。それにも拘らず軍事ファシズムの暴圧が20代の彼らを立ち上がらせた。彼らの非民主的な習俗が彼らの乱れない隊列の助けになったかもしれない。しかしその習俗は軍事ファシズムが引き上げた後、彼らを無力にした。現実社会主義の国々が人民によって崩壊すると彼らも一緒に崩れ落ちた。彼らはその崩壊で自分達の姿を確認し、落胆し自壊感に陥った。彼らは一斉に歴史を捨て、日常へ帰った。









1990年代以降、30代になった彼らは二つの様相を見せるようになった。彼らは政治的民主化については相変わらず断固だが、社会経済的な民主化については曖昧な態度で一貫した。軍事ファシズムと戦って倒した思い出は大事に取っておきながら、民主化以降に渡来した巨大な資本化の流れには妥協して生きていく彼らの本音がそのまま映し出されている。とにかく彼らは相変わらず韓国社会の前世代の中で最も知的で正義志向的な人々だった。彼らが生み、育てた子供達がまさにろうそくを持った子供達だ。

その子供達もまた二つの様相を持つ。彼らは韓国のほかの全ての世代とは比べ物にならないほど主体的な個人であり、権利意識が高い。しかし同時に彼らは哀れなほど消費文化に濡れており人生で金と物質的な価値を優先視する資本の感性を見せる。映画<グエムル(怪物)>でソンガンホの中学製の娘(コアソンが演じた)はその典型の一つだといえる。その子は流行り遅れの携帯電話を父さんが使えと投げるが、同時に不当で混乱な状況では驚くほど主体的だ。

その子達が今日の広場でろうそくを持って戦っている。多くの人々がその子供達を見ながら韓国社会の希望を感じると話す。もちろん感動的な光景であることは間違いないが現在としては希望はたったの半分だ。残りの半分は絶望が埋めている。こうも多い子供達が携帯電話、運動靴、MP3プレイヤーなどで幸福と不幸を感じる(10代マーケティングを繰り広げるものを呪う)社会は地球上にない。こうも多い子供達が将来希望がないか、こうも多い子供達の将来希望が芸能人(は子供達にとって自由で安楽な人生の典型だ)の社会も地球上にない。こうも多い子供達が0時が過ぎても塾を回り競争の機械として育てられる社会も地球上にない。

こう育った子供達が幸福に生きられるだろうか?子供達は李明博氏のいない、しかし社会経済的にはより邪悪になった社会で、忠直な資本の臣民として生きていくだろうという不吉な予測から逃れる術がない。しかし私達が覚えているべきことは子供達の持つ半分の絶望は全的に後天的なものだという事実だ。この子供達の未来は子供達を育てて教育し環境を作ってくれる人々にかかっている。韓国社会の未来は再び386にかかっていることになる。彼らは今どんな状態にいるのか。もちろん彼らの相当数は李明博を嫌い大運河に反対し狂牛病牛に怒りろうそくをもった子供達を侮辱する朝・中・東を叩く。しかし李明博を嫌い大運河に反対し狂牛病牛に怒り朝・中・東を叩けば本当に李明博に反対することになるだろうか?

子供達が怒る0時間問題や高校序列化や学校自律化といった問題を見てみよう。その問題の数々は李明博氏が始めたものではない。民主化以降、よりストレートにいえばIMF事態以降、韓国社会が急激に新自由主義的な体制に突入しながら始まったことだ。いうなればその問題は金大中・盧武鉉政権ですでに基礎を積んでおり李明博政権で'露骨化'しただけだ。だからその露骨化した部分を切り取って反対することで李明博氏の教育政策を反対するということはおかしな話だ。問題の核心は露骨的かそうではないかではなく、子供達を育て教育する価値観がなんなのか、というものだ。そう考えると現在、好きであれ嫌いであれ自分の子供を人ではない商品として育てる隊列に参加させているなら「李明博の露骨性に拒否感を感じる李明博支持者」でしかない。

米産牛肉に反対するといって李明博氏と違うと考えることはない。米産牛肉問題は狂牛病が疑わしい牛肉を国民に食べさせようとするという倫理的なレベルの問題ではなく世の中を見る方式、そしてどんな社会を目指すかという立場の問題だ。米産牛肉問題は金が第一の価値であり経済的効率がどんな価値よりも優先する新自由主義の価値観で出た数々の問題の中の一つでしかない。ほかの農畜産物輸入問題や自由貿易協定(FTA)やイーランド労働者問題やKTX女性労働者問題やサムスン労組問題に無関心な人が米産牛肉に反対するといって李明博氏と違うようになるわけではない。

韓半島大運河に反対するといって違うという考えもやめよう。今日の韓国の良識的な人々は、殆ど大運河に反対する。しかし大運河に反対する彼ら殆どはすでに自分の中に大運河より遥かに巨大で破壊的な大運河を建設している。夜遅く、韓国の都市ごとに長く列をなす塾のバス、元気を失った顔でそのバスに乗っていく子供達。それが大運河でなければなんだというのだ。その隊列に自分の子供を「子供の発展と未来のために」乗せていく人が大運河に反対するとはどれだけおかしなことか。

私たちは今、価値観の戦争を繰り広げている。金の価値観と人の価値観。金と経済的効率を優先する価値観と、遅くても人と自然を優先する価値観、国家の総経済(は実は支配階級の経済だ)を重要視する価値観と、構成員の経済を重要視する価値観の戦争だ。金の価値観の頂点に李明博氏がいることは確かだ。しかしその頂点の醜い外見に拒否感を持つからって、私たちが人の価値観を持てるようになるのではない。子供たちを人ではない商品として育てる隊列に、嫌々ながらも結局参加しながら李明博のより露骨敵な教育政策には怒る姿、自分の中により大きい大運河を掘っておいて、李明博の大運河は反対する気の毒な姿が全てなら、私たちには何の希望もない。

一呼吸止めて、私達自分を振り返ってみよう。正しいから、正義を追うために苦痛と損害に耐えようというのではない。本当により豊かになるため、幸せになるために考えを変えようというのだ。「子供達の未来のためにどうしようもなかった」などの嘘はやめよう。自分の欲望を子供を通じて具現しようとしたのではないか?幸福がそんなものではないことは、実はみんなが知っているではないか?この利口な子供達、サムスンだのSKだのいう商人の赤い旗や国家主義的扇動に太極旗を巻いて広場を一杯にした20代とはまったく違う、むしろ社会現実を悩みぬき自ら学習して連隊して戦っていた親の世代の青年時代と瓜二つのこの子供達を、どうすればいい?(キム・キュハン)
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by no_kirai | 2008-07-09 04:39 | ろうそく集会(デモ/文化祭)
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