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朝鮮日報の狂牛病特集


朝鮮日報がキャンドル特集なるものを出した。社説まで動員し狂牛病怪談によってキャンドルが発生したという「右派の視線」を繰り返すものだった。それで終われば選挙を前にした確認射殺ぐらいだと思われスルーされたかもしれない。しかしイミョンバク大統領がそれに便乗したことで局面が変わってしまった。キャンドル政局のとき「反省」したことが本心ではなかったという事実を天下に知らしめたようなものだからだ。「ウソつき大統領」という更なる変数が加わった。







朝鮮日報が何故このような特集を企画したか、いろんな理由を挙げられるが、最も信憑性のあるものは「自分の家庭内の取り締まり」と談論のヘゲモニー掌握を目的としたと推測できるだろう。基本的に「保革対決」をけしかける方式は、韓国の政党政治を支配してきた定食メニューだと言えるが、有利な世論調査結果を土台にして最後の取り締まりを行おうとする考えがあったかもしれない。これに伴いキャンドル2周期とノムヒョン前大統領逝去1周期が重なる時点で、談論のヘゲモニー掌握において優位に立つつもりもあったはずだ。

もちろん、朝鮮日報は利口だ。特集記事の数々をよく読むと、無鉄砲にキャンドルを丸めて非難する意図ではなかったことがわかる。この記事らが焦点を合わせているものは「狂牛病怪談」である。要約すれば、間違った狂牛病怪談のせいで善良な市民らが騙されキャンドルを手に持ったということが主張の核心だ。この主張の狙いは明確だ。ろうそく市民と進歩改革勢力を分離させることが、真の意図だと言えよう。

しかし全てが朝鮮日報の論調と一致すればどれだけいいだろう。そもそもこのような試み自体が悪手だとしか言いようがない。なぜなら、キャンドルは根本的にろうそく市民のものであって、進歩改革勢力のものではなかったからだ。ろうそく集会に1回でも出てみたなら、その現場で「運動圏」がどんな扱いを受けたかは正確にわかっていたはずだ。ろうそく集会で進歩改革勢力は全く持ってデカイ顔が出来なかった。むしろ蔑まれたという事実に注目する必要がある。しかもキャンドルは基本的に左派と右派の区分を超えた構図の上で繰り広げられた事件だった。したがって、あまりにも様相が多彩だったため、キャンドルを特定の政治的色彩で既定する瞬間、「論争」が避けられなくなる。

このような特徴は、キャンドルが政党政治に対する不信と疎通に対する要求により発生したということを意味する。「イミョンバクOUT」以外に何らかの「政治的」と思われるフレーズを叫べなかったキャンドルの雰囲気は、進歩改革勢力の判断すら混乱に陥らせるものだった。キャンドルは特定な指導勢力や集団を備えていなかった。その所以は、キャンドルこそ不完全な韓国の民主主義制度が呼び出した亡霊であったからだ。むしろキャンドルを呼び起こした責任は、無力な進歩改革勢力にあるのではなく、民主主義的権力の運用に未熟だった保守右派勢力にあったわけだ。このようにキャンドルの原因が「狂牛病怪談」というより、政党政治という代議制民主主義への不満だったという事実を朝鮮日報は無視している。朝鮮日報だけか。ハンナラ党議員も同様のようだ。キャンドルを「妄動」だと規定して選挙局面に有利な保革対決の構図を強化しようとする「戦略」に埋没してしまったため、正確に現実を捉えられないでいる。

また、朝鮮日報の特集はキャンドルに加担した「江南左派」に対する警告も含んでいるように見られる。特に、天安艦政局で心血を注いだレッドコンプレックス戦略が適切に作動しないという異常気流を感知した状況で、朝鮮日報は危機感を感じたはずだ。かつてのように朝鮮日報が談論市場におけるヘゲモニーを掌握し政局を主導できないという事実が自明になったからだ。穴のあいた「国民の安保意識」を嘆いたキムデジュン主筆(訳注:元大統領とは別人)のコラムもそうであり、今回の特集と一緒に掲載した社説でも、このような危機感を感知することができる。次の引用文を一度読んでほしい。

『天安艦沈没という国家的非常状況でも、インターネットは相変わらず「米軍誤爆説」など無責任な怪談の産室の役割をしている。2年前に狂牛病怪談を吐きだした勢力らが、今回は天安艦怪談の背後からうごめいている。インターネット上の自由な情報交換と討論はより広く開かれるべきだ。しかし経済で悪貨が良貨を追放すれば金融秩序は崩れる。同様に、インターネットで虚偽が真実にテロを加え追いやる風土に手も足も出ないなら、我らが住む大韓民国を安全な国だと呼べないはずだ。(朝鮮日報5月11日付)』(訳注:米軍誤爆説なんぞ聞いたことねーぞ;)

社説らしくなく、思いのままにいかない現実に対する「イライラ」がにじみ出ている。今回の狂牛病特集が何故朝鮮日報の紙面を埋めることになったかを伺わせる情況がここからぼんやりと浮かんでくる。実はこのような朝鮮日報を見ていると、怒るというよりは憐憫のような気持ちを強く抱く。時代の流れに適応できず消滅していく恐竜を見るようだからだ。特集が出てから数多くの反駁があちこちから溢れ出ると、急に鎮火に出る姿も含めてそうだ。取材部長が名乗り出て「ファクトは間違ったところがない」と強弁する姿や、社説で「白書」を作るさいに政府の間違いも記載した白書を作れという忠告も見ていて切なくなる。これが、普段は一位新聞を主張してきた朝鮮日報の実像だ。

キャンドルは進歩改革勢力や左派のものではなかった。キャンドルは文字通り「市民」が作り出した祭りの空間だった。祭りが開かれれば、蠅だって飛び跳ねるし、ゴミだって詰み上がる。祭りを楽しむすべを知らず、汚くて不潔だとばかり思う朝鮮日報の潔癖症が、今回の狂牛病特集のような「悪手」を打ったというのが個人的な考えだ。今回の特集を読んで、いったい朝鮮日報が望む韓国社会はどんな姿か、だいたい想像することができた。安保観の徹底している国民が、一糸乱れず「キムジョンイルOUT」を叫びながらマスゲームを繰り広げる社会を朝鮮日報は夢見ているのかもしれない。こんな社会、どこかで見たことがある気がしないだろうか?それぐらいで十分ではないか。朝鮮日報は早く夢から覚め、キャンドルを通じて一瞬だけ現実に到来した韓国的市民社会の意味を振り返ってみることを望む。
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by no_kirai | 2010-05-14 13:32
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